結婚して初めて「食器を手で洗う」生活を始め、2年になりました。
この奇妙な2周年を記念して、そしてなぜ世の中の流れに逆行することになったのか、書き留めておこうと思います。
私が初めて結婚したのは今から30年前です。
母が「食器洗いで手を荒らす必要ない」と食洗機を持たせてくれました。
母自身、1980年代から食洗機を使用していたので自然な成り行きだったとは思いますが、私は何気に母の気持がうれしくありがたく、その言葉は心に残りました。
それからというもの特段の意識をすることはなく、私はずっとずっと食洗機を使い続けました。
転機が訪れたのは2年前のことでした。
私達が3月に引っ越しを控えていた2020年、コロナ禍に突入してしまいました。
食洗機は持参したのですが、初めての土地、初めての緊急事態宣言下、とにかく人との接触を避けねばと、水道屋さんに依頼ができなくなってしまいました。
そして一時的に始めた食器の手洗いは日常となっていきました。
水栓につながれないものの、食洗機自体はただあるべき場所に置かれていました。
ある時ふと思いました。
「持ってきたけれど、これはもう十分使ったので、新しい食洗機に買い替えよう。次の粗大ごみの日に出そう」
そして食洗機を「あるべき場所」から床に下ろしました。
すると突然、リビングに今までなかった視界の「抜け感」が出現したのです。
食洗機は排水の都合上、シンクの高さ以上の所に設置する必要があります。
壁際に設置するのでなければ空間を遮ってしまう、それが今の家で明るみに出たのでした。
のけると抜けた空間が現れ、さえぎりがわかったというか。
話は変わりますが、最近は本を耳で聴けるサービスが充実してきましたね。
でも耳読ってどんなシチュエーションでするでしょうか?
だいたい「何かをしながら」という状況だと思います。
私の場合はウォーキング、そして食器を手洗いしているときが最も無心に聴けてフィットしました。
さらに最近はネットで処理することが増え、家にいてもPC作業で煮詰まりがちです。
そういう時、耳読しながらの「食器洗い」が気分転換にぴったりな「手仕事」として私にハマってしまいました。
話をもとに戻すと、食洗機による「空間の遮り」が意識に上ってしまったのと、食器を手洗いする効用も発見してしまったので、実に時代に逆行しているのですが、1990年代以来初めて、食洗機を使わない結婚生活がスタートしました。(手袋をつけて)
今はこの状態が実に心地よく、室内のスッキリ感も気に入り、「京都は景観保護で建物の高さ制限ってわかるわぁ~」とか(笑)不遜にも共感したりして、大いに悦に入っています。
そして1つ付け加えると、私はこれだけの長きにわたり、食器を手洗いしてきていないのに、では私の手は30年分美手かというと、微妙…。普通に年相応な気がします。
手荒れ回避の積み上げはどこに?(爆)